第508回 (2014.6.14) | |||
空 海と最 澄 の仏 教 |
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前園 実知雄 (奈良芸術短期大学教授) | |||
飛鳥時代から奈良時代へと続いた南都仏教は、主に寺院を都や豪族の拠地である平地に建立し、その伽藍配置自体が、仏教の教理や信仰の形態を立体的に示すものであった。し かし空海や最澄が目指した密教は、高野山や比叡山といった静寂な山林の中での活動が中心となったため、それまでの伽藍配置の変遷とは一線を画するものとなった。 ここで二人の軌跡をたどっておこう。まず空海より七歳年長の最澄は近江の人で、十二歳で近江国分寺に入門し、十九歳の時、東大寺で受戒した後に比叡山に登り、禅や華厳を学んだが、次第に天台の教相に心を傾けるようになった。そして、桓武天皇の庇護を受けて、延暦二三年(八〇三)の遣唐使船に天台宗の請益僧(しょうやくそう)として乗船し唐に向った。しかし、瀬戸内海で難破し、待機を余儀なくされ一年後の翌二三年に改めて出発し、苦難の末明州(浙江省寧波)に上陸することができた。その後所期の目的地であった天台山に参拝し、天台の経論の収集につとめた。 請益僧とは、国内ですでに地位のある僧が、さらなる知識を得るためや、疑問点などを解決するために、短期間入唐する僧のことで、最澄は翌二四年には帰国している。彼は帰国の途中で立ち寄った越州(紹興)の龍興寺で、密教の根本経典である『大日経』を中国語に翻訳したインド僧善無畏(ぜんむい)三蔵の孫弟子、順暁から密教を相承した。 いっぽう空海は留学僧(るがくそう)として遣唐使船に乗ったが、期せずしてその出発は、最澄と同じ時であった。留学僧とは二十年以上唐にとどまり、仏教の根本から学ぶことが義務付けられ僧のことで、彼らの留学費は官費から支給された。 空海の経歴について詳しくのべることは省くが、大学を中退してから入唐までの約十年間の様子は不明な点が多い。しかし二四歳の時に完成した『三教指帰』(さんごうしいき)は現存し、その内容からすでに仏教に深く傾倒していたことはうかがえる。 遣唐使船は一般的には四隻からなっているが、これは危険な航海のリスクを考えた上のことで、事実空海と最澄らが向った船団も、唐にたどり着くことができたのは半数の二隻だけだった。 空海が乗船した第一船も暴風雨に遭い、福州の赤岸鎮に漂着した。しかし、大使の藤原葛野麻呂は、空海の語学力の助けで、無事長安までたどりつくことが出来たというエピソードは良く知られている。 長安に着いた空海は、まず西明寺に向ったが、ここはかって奈良仏教をリードした道慈が長く滞在していた寺で日本の留学僧の多くが身を寄せるところだった。 その後インド僧般若から梵語の指導を受けた後、所期の目的であった青龍寺の恵果和尚の門を叩いたのは長安に着いてから半年後の、延暦二四年(八〇五)の六月のことだった。そこで密教の根本経典である『大日経』、『金剛頂経』を学び、胎蔵、金剛界の両部の法を伝えることのできる唯一の恵果から、中国人弟子では義明しか授けていなかった両部の法を受け継ぐことができた。そして、使命を終えたと感じたのであろうか、恵果は授法後三ヶ月で遷化した。目的であった密教の大法を受けることのできた空海は、二十年の留学期間を二年で切りあげ、帰国の途についた。留学を自らの意志で中断した空海は、当然のことながら、朝廷からの命でしばらくの間大宰府にとどまり、上洛が許されなかった。 しかし、その彼に救いの手をさし延べたのが、一足先に帰国していた最澄だった。彼は空海が持ち帰った経典類等を記した『請来目録』を目にして、その重要さに驚きをかくせなかったようだ。そして自らが学んだ密教が不完全なものと痛感した最澄は、後に空海にこの経典類の借覧を申し出ている。今、比叡山には最澄が書き写した『請来目録』が保存されているが、最初に実見した時、私の想い過ごしかも知れないが、その筆跡や行間から最澄の強い想いが伝わってくるような気がしたことを鮮明に記憶している。 その後 高雄山寺(神護寺)に拠点を置いて活動をはじめた空海のもとで、最澄は弟子の礼をとって金剛界と胎蔵の両部の法の入壇灌頂(かんじょう)を果たしている。 灌頂とはインドの国王が即位式に際して四大海の水を頭に注ぐことに由来し、阿闍梨(あじゃり・師)が弟子の頭に散杖で五智如来をあらわす五瓶の水を注ぐ密教では最も重要な儀式。最澄はこの後も弟子を通じて、空海から経軌典籍の借入れを申し出ている。 その過程で起こったのが、有名な「風信帖」の事件である。これは『理趣釈経』という経典の借覧の依頼を空海が拒否したことで、その時の手紙が現在も残る「風信帖」と呼ばれるものである。これは密教に対する二人の解釈の隔たりから生じたもので、起こるべくして起きた出来事といえよう。また最澄から預かっていた弟子の泰範が比叡山への帰山を拒んだことも重なり、以後二人は別の道を歩むことになる。 空海の密教に対する考えは、彼の著作の『十住心論』を例にあげれば、人間の心を迷いに迷いを重ねている第一異生羝羊心(いしょうていようしん)から、仏の悟りの極位を表す第十秘密壮厳心までの十の段階を設定し、その第十番目に密教を置くという、究極的には密教一元論であったのに対し、最澄は、法華天台の体系がまずあり、それと平行する形で『大日経』等の密教を受け入れるという二本柱を主体としていた。 空海にとって『理趣釈経』は、借覧のみで解釈できるものではなく、実践を伴なうものでなければならなかったのである。空海は高野山で真言密教の深化をはかり、十大弟子と称せられる僧達によってその思想は引き継がれていった。いっぽう最澄はといえば、悲願であった大乗戒壇の開設は、彼の没後七日目の弘仁十二年(八二二)六月十一日付で許可が降り、翌年比叡山寺を延暦寺と改称し、官寺としての役割をもつようになった。 空海の密教を東密(東寺密教)、最澄の密教を台密(天台密教)と呼ぶが、先に述べたように、最澄は晩年密教から意識的に隔れるようになったが、九世紀後半に活躍した弟子達の円仁、円珍、安然らは真言宗に対抗する意味で台密の教義を確立する努力を行ったことがあげられる。 弘法大師空海は彼の天才的な頭脳と行動力で、中国では未完成であった密教を真言宗と いう名で完成させ、いっぽう最澄は、法華天台の礎を築いた人物としてその功績は大きい。 平安末以降、鎌倉新仏教が次々と誕生するが、その開祖の多くは叡山で学んだ僧達であったことがそれを物語っている。 大きな時代の変換期であった、平安時代初期を共に生きた二人の目指した方向は異なったが、後世の仏教がたどる道を思い浮かべると、改めて二人が偉大な開拓者であったことは明らかであろう |
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